『ダブルダウン勘繰朗』西尾維新

ダブルダウン勘繰郎 (講談社ノベルス)

舞城王太郎の「九十九十九」が、私にとって「劇的なイニシエーション」とでも言うべき衝撃作であったため、ついその勢いで買ってしまった。

西尾維新は、以前E中さんから「クビキリサイクル」をもらって読んだ事があるものの、その後意図的に避けていた。
クビキリサイクル自体は別に続編を読んでもいいかな、と思わなくもない程度にはそこそこ面白かったのだけれど、きっと世間で彼が持て囃されてるのがつむじ曲がりな私には気に食わなかったんだろう(笑)

で、まぁ実に久しぶりの西尾作品体験だったわけだが…
…これがもう、素晴らしく大後悔時代。

『ルー=ガルー』の時も若干感じたのだが、これ作品の対象年齢が製作段階でかなり厳格に絞り込まれてて、私がそこから完全に外れてるからなんじゃないかとすら思ってしまうほど、とにかく延々と繰り返される青臭いお説教の羅列に、ウンザリ・ゲンナリである。

挫折したヘイボンなオトナがそうでないコドモとの出会いによって昔の情熱を思い出す、という、見事なまでに「うわー、ベタやなー」的な内容を、“なんの装飾もなく”ストレートに直球で投げ込んでくる潔さには、むしろ天晴れと言ってあげてもいいような気さえしてくる。

西尾維新にしても舞城王太郎にしても、メフィスト賞に遠慮してか妙にメタ・ミステリ的な味付けを作中に取り込もうという行為が往々にして見られるのだが、この作品についてはそれもウザったさを助長してる気がする。
書くべきを書かず、書かざるべきを書いて、挙句に作中で「それも演出ですから」と言ってしまえる開き直りは、作者の作風なのかなぁ?(それとも西尾維新が流水をそう解釈してるということなのだろうか(笑))それはそれで多重的メタ化と自己否定を繰り返していく00年代のオタク文化にあっては正統派的手法と言えなくもないけれども。

余談だが、読んでいてこの人の文体、奈須きのこと似てるな、とふと思ってしまった。一応逆なんだろうけど(笑)
文章の洗練度という意味では佐藤友哉舞城王太郎の方が上なんじゃないか(佐藤友哉は微妙か)と思わんでもないが、こういうブロークンな文体もこれはこれで有りなのかなぁ。これも単に文Showにするために無理やり壊してるだけなのかもしれないが(笑)

なんにしても、私が「クビシメロマンチスト」を読む日は遠そうだ。