「暗黒童話」

暗黒童話 (集英社文庫)

舞城王太郎、特に「暗闇の中で子供」を読んだ直後だけに、この作品の読後感はなんとも複雑である。

タイミングが良いのか悪いのか、この二作品、非常に似た構造(単なるストーリー上の構成という意味ではなく)となっている(語り手の内面の旅。それとは別に繰り広げられる不条理な死。それによって喪失される自己。失われる四肢。etc.)。
であるが故に、両者の(作家として)生まれてきた背景というものに興味を新たにする部分があったし、逆に両者の違いが鮮明に見えて面白く感じたりもした。

以下、ネタバレ有りってことで。

一つ非常に残念だったのは、この作品と「暗闇の中で子供」との読む順番を間違えたな、という事。
全ての人にとってそうであるとは思わないが、少なくとも私にとって、先に読まれるべきは「暗黒童話」の方であった、と思う。

というのも、「こうしたストーリーを堪能する上での姿勢」というものについて舞城王太郎が登場人物に語らせた言葉が、この作品を読む上で強く意識されてしまったからだ。

今でこそちょっと売り出し路線が変わってきている乙一だが、元はミステリ作家というカテゴライズに入れられてた頃もあった。
実際、この人の作風は、ウェットな内容をドライに書いてのける独特な内面描写と、現代風(それを「本格」というカテゴライズで表現していいのかどうか、ミステリ自体に詳しくない私にはわからないが)の明確に意識されて構築されたトリックとが同居しており、その、時にアンバランスな配合が不思議な味わいを醸し出すこともしばしばである。

この「暗黒童話」も例外ではなく、序盤から(メフィスト賞などのミステリを読む人間には)明確に叙述トリックの存在がほとんど明示に近い形で示され、それに対応したやはり露骨なミスディレクション(もっとも、露骨なのはそれが「真相の複数の可能性」を提示していること自体であって、どれが正しくどれが誤導なのかは最後までわからない。乙一の小説は、平然とそれまでの記述を覆すような非推理小説な手法も多いのだ。真相はあくまでも作者の恣意によって決められる(それが推理小説における読者との暗黙の了解を破るものであっても)のが、この作家をミステリ作家にカテゴライズすることをためらわせる最大のポイントだ)が複数提示される。

しかし、この作品の主眼は、そうしたトリック部分には存在しない。

それは、例えば登場人物たちが見せる様々な愛(哀)の心情であったり、「私」というはかない存在が感じさせる「せつなさ」であったり、特定の造形作家の名前がいくつか連想できてしまうような、シュールでグロテスクでそれでいて目を逸らし難い魔性の魅力を持つ様々な肉の描写であったりする。(と、とりあえず私は思う)

にも拘らず、舞城王太郎の指摘によって「三郎気質」が加速してしまっている今の私には、明らかに同居できるとは思えないこうした複数の「物語」を織り込むことで「気持ち悪い」ストーリーを生み出さんとしている作者の試みに耽溺する行為よりも、いつもながらの小道具にすぎないトリック部分への解析を足がかりとした、「論理的解釈」の方へとついつい意識が引っ張られてしまうのだ。
これは、かなり不幸なことではないか。

といって、もはやこれは変え難い私の性格でもあるわけで。
である以上、せめて読む順番を逆に出来ていれば、もうほんの少し、この不気味ワールドを深く味わえたのに、という八つ当たり的な思考を巡らせることで、不足分を補完するしかないのだろう。

それにしても、思考が近い人間の作品よりは適度に遠い(思考が、というより志向が)人間の作品の方が無邪気に楽しめていいなぁ、とちょっぴり思う。
いや、単に乙一はいいなぁ、というだけの話なのだが。
今のところ私が読んでる範囲の乙一はまだまだ進化途上(「暗黒神話」も要素要素は秀逸だが全体の完成度は決して高くない)なので、早く乙二くらいになった作品を見て見たい。

ただ、キャラクターを立てるために肉体的な欠落を要素として使う手法だけはいつまでも好きになれないな。(手であっても眼であっても鼻水であっても)
でも、それがいいのだが。って、どっちだ。

…で、結局「暗黒童話」ってタイトルは「暗黒神話(体系くとぅr…)」のパロディなんですかね?