「ハウル」考察2

昨日の続き。ネタバレあり。

自然の描写が今ひとつ

宮崎駿と言えば「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」などといった「自然」をテーマにした作品で特に高い評価を得ている作家だ。(狸とかもあったな)
また、これら以外の作品においても、作中で「美しい景色」を描写したシーンを挟む手法を数多く取り入れ、魅力的な映像作りに成功している。

今回のハウルでも、美しい山間の湖岸で食事を取るシーンや、ストーリー上の重要なポイントとなる湿原などで、そうした場面が見られるのだが、これが今ひとつ見ている側に響いてこない。

アニメーションという分野が視覚表現の手法としては(「もののけ姫」あたりで)一つの限界点に到達してしまっているというのもあるだろうが、主たる原因はやはりそれとは別にあると考えられる。

一つには、これらの風景が「日本人」には少々馴染みの薄いものであるということ。
勿論、日本にも美しい湿原や高山帯の湖などの風景は存在しているのだが、現代人の多くにとって、そうした風景は(「トトロ」や「もののけ姫」で表現したような)馴染み(あるいは郷愁を誘う力)あるものでは必ずしも無い。
(作品世界が西欧風である以上、これは仕方の無い部分も大きいのだが…)

もう一つには、「作品のテーマ」を感じる上において、これら「自然の美しさ」がその中で果たしている役割を認識することが困難である、という点がある。

ハウル」の物語において、「美」という言葉の持つ役割は重い。
物語の主題である主人公・ソフィーの心象は、「美」に属さない者としての劣等感から始まる。しかし、最終的に彼女は「老醜」の呪いという形で具象化したその心の枷を、あるいは受容し、あるいは打ち破っていくことで、「ヒロイン」として美しく脱皮していく。
その過程において、様々な形を取る「美」の一つとして、こうした「自然の風景」が持つ「テーマのストリームを形成するパーツ」としての役割は、決して低くはない、と考えることができるのだが、それが具体的に作中で語られることはない。(ハウルによって花咲き乱れる湿原に誘われたソフィーが、そこで無意識に呪いから逃れていた、という表現などは象徴的で印象深かったのだが)

結局、単純な大道具としても、気の利いた小道具としても、今作における「自然」の扱われ方は、高尚すぎて(あるいは単に考え過ぎとも言えるか)あまり良い結果に結びついていない、と思うのだ。