『ドグラ・マグラ』

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)
ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

を読みました。
…下巻のイメージが表示されないのですが、お下劣すぎるからでしょうか。

とりあえず一言で感想を纏めるなら、「予想外」あるいは、もう一歩踏み込んで「期待外れ」とまで言ってしまってもいいかもしれない。

角川文庫版の裏書に書かれた宣伝文句を抜粋しよう。

(前略)

<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説><日本探偵小説界の最高峰><幻怪、妖麗、グロテスク、エロティシズムの極>とうたった宣伝文句は、読書界の大きな話題を呼んだが、常人の頭では考えられぬ、余りに奇抜な内容のため、毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない。

(攻略)

この文章に限らず、コレまでに様々な小説・評論などにおいて紹介される際の文言から私が想像していた「ドグラ・マグラ」像は、狂人がある事件を書に記したのだが、時系列が混乱してたり、彼にしか見えない幻像などが介入したり、転移する彼の人格ごとに文体が変わったり、全く意味不明の文言が不意に混線したりといった混乱の極みを尽くしながら、それでいて通読するとそれとなくその背景となった事実の全体像が想像できてくる…といったスタイルのものだった。
ラブクラフトの日記モノを5、6歩前(?)に進めたような感じだろうか)

しかし、違った。
それも、並みの違い方ではない。ほぼ180度、昨年度の流行語で言うところの「真逆」だった、と言っていいだろう。

この本の前半部分の大半は「精神を科学する」ための考察で占められている。
この考察が、スゴイ。
何がスゴイって、書かれている事が科学的見地からして、当時の最先端も最先端、日本でもここまで考えられていた人間はそう多くないだろう、と思えるほどに正しい。
(さすがに当時の学術知識を現代と比較した際の限界がある以上、間違っている部分も多々あるのだが、その間違い方も当時なら学派として十分存在し得る(さすがに「細胞の記憶」とか胡散臭くなるものもあるが…)範囲に収まっている)

この本が、1990年代に書かれたものだとしたら、「何を高校生でも知ってるようなことを当たり前のことをエラそうに書いてるんだ」とか「そんな薀蓄垂れてる間があったら物語をもっと練れよ」とか、散々な突っ込みと罵倒が浴びせられただろう。
しかし、これが書かれたのは1935年。今から70年も昔、昭和が始まって間もない頃なのだ。
美術・文学的手法ではない、化学的・物理的見地からの生物学はまだまだ社会的地位の無い先端技術でしかなかったはずだし、フロイト様の開拓した精神を科学するというジャンルに到っては、ようやく学問ジャンルとして成立したくらいだったはずだ。(メンデルの遺伝学的発見から70年、フロイトの研究から40年程度しか経っていない)
それを、まぁ一応大学を出たエリートとはいえ、東洋の僻地の一小説化が十分に内容を把握した上で小説の枠に取り込んで紹介しようとしたのだから、これは一種の偉業とさえ言えるかもしれない。
それこそ、超時代的な存在という観点からは、ラブクラフト的狂人の発想と言えば言える。

(書きかけ)