『空の境界』

空の境界 上 (講談社ノベルス)
空の境界 下 (講談社ノベルス)

で、(上のトピックが図らずもネタ振りになってしまったのだが、)ようやく『空の境界』を読了したわけです。

いわゆる「セカイ系」の典型的作品(「ブギーポップは笑わない」を20年前の京極夏彦に書かせたようなモノだと思えばほぼ間違いないでしょう。当時どんな文章書いてたのか知らんけど…)で、『月姫』あたりと比べてもエンタメ度が一段下がっている気がする(ノベルゲームと小説という媒体の違いからは必然的な事態だとも言えるか)。

内容はいたってシンプルで、主人公が「あなたは人を殺せますか?」というテーマを延々と自問した挙句「私は殺せません」という結論に帰って来る(たどり着く、ではない)というただそれだけのお話。(思いっきりネタバレか?これ)
オマケに、その理由が「好きな人が居るから」という、もう100点満点パーフェクトな徹底振りで、いっそ清々しくもあり、逆に受け入れやすくもある、という。そんな作品である。
(もちろん、自問する主人公はコスプレ戦闘美少女であり、その「好きな人」は「究極のニュートラル」というギャルゲー主人公の必須属性を持っているわけだ)

で、主人公は自問自答の1998年内面宇宙の旅の途中で、様々な「異常」を孕むが故にそれを体現する能力を得た者達と対決し、「ソレ」らとの対比によって喪失していた自己の「カタチ」を認識していく、という教科書どおりのステップを踏むわけなのだが。

その「異常」というのが、どうにも。微妙に座りが悪いのだ。

その理由は、多分(ここでようやく上の絵の作者の話と連動する)描かれている「異常」というのが、あまりに抽象概念に寄りすぎている(しかも、テーマがかなり大きい)ことや、それを抱えるのがそろって10台半ばの少年少女(しかもみんな「美」がつくのだ。当然ながら)であることなんだろう、と思う。

JOJOで切り開かれ、ブギーポップで成熟(?)された、こうした能力者同士の戦いは、あくまでもクールで、原色ベタ塗りセル絵の風景で、一切の肉感が存在していない。(まぁ、バトル自体が「討論会」(それも朝ナマとか「十代しゃべり場」とか)の投影図でしかないのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが)
そこでは、血の臭いさえ「芳香」となり、泥の味すら苦く「味わえる」ものとなる。

「予想だにしない絶望的な(しかし埋める必然性を『全く』感じない)精神的断絶」や「考える以前に体が反射的に拒むような物理的断絶」がそこには存在していない。
恍惚の表情で歌いながらナイフでゴリゴリと若者の首を切り落とす「正常者」も、浜辺に打ち上げられた数千の(魚につつかれた)腐乱死体から漂う腐臭も、(あるいは、理解はできても共感の必要性を感じられない「自分の」アートにのめり込む他者も)、決して出てくる事はないのだ。
にも拘らず、その闘争は「セカイ」を内包している。のだと言う。

もちろん、これらの人物のプロット上の存在意義が「主人公の姿を“映さない”『反面』鏡」である以上、背負った課題とそれに対する回答の方向性という二つのやはり抽象的なテーマパート以外は極力その属性が主人公に似せられている必要性があるわけで。こうした違和感が「作品」としてのまとまりを考える上では的外れなものであることは理解できているのだが…

(書きかけ?→多分もう書かないいつものパターン)

と思ったけど、普通に軽い方の感想も書いとこう。

最初は『月姫』とのキャラ配置の違いに悩んだが、慣れてくるとある意味全部見たことあるキャラなので理解はスムーズだった。
まぁ、小説進行故かキャラ立ちが微妙にブレるので、『月姫』で出番の少ない橙子あたりはちょっと理解しにくい(設定生きてない)部分もあったりしたが。

式は萌え分が足りてないと思う。
その分、鮮花が補充してくれたように感じるのは、私が秋葉属性だからか。
藤乃=さつき(?)は相変わらず影が(幸が)薄いのう。コクトー君ともっと絡ませてあげれば…

…そんな感じ。