三郎

書評とは違う話になるけど、何故この作品がこんなに読みにくいのかという点を考える。

一つにはナンセンス小説(妄想系小説。作中作という解釈を採るにせよ採らないにせよ)であるということもあるだろうけど、一番ひっかかるのは、文章(独白)のリズムと語り手の気質が不一致であるという点じゃなかろうか。

三郎の語り口は四郎のそれと非常によく似たリズムになっている。
「この作者にはそれしか書けなかった」という恐ろしい説はうっちゃってしまうとするなら、このリズムこそが「奈津川」の血なんだと解釈できよう。一方で、それを語っている三郎が「どちらかというとインドア派(って身内ネタか…)」な非奈津川家的気質の持ち主であるという事実が存在している以上、その両者に齟齬が生じるのは自然なことだ。
その齟齬があるから、三郎の妄想癖というか鬱というか何かよくわからないインナーワールドへの傾倒が強くなっている(そしてそれこそがまさにこの「物語」である)以上、これは避けて通ることの出来ない障害である、といったところだろうか。

なんかよくわからんけど、「ドグラ・マグラ」とか読んだ方がいいのかね?

まぁ、「考えるな。感じるんだ」がテーマっぽい感じで作中述べられてるってこともあるし、そもそも清涼院流水(作中、「まで」扱いされてるのが笑えた)好きなヤツの作品をクソマジメに解釈するとバカ見ることも多いので、あまりアレコレ考えるのは止めといた方がいいのだろう。
最後まで読んでみると、これも将来性を感じるいい作品…かもってことで。

どうでもいいけど、帯のアオリが完全にミステリ小説のそれなのがおかしくてしょうがない。