煙か土か食い物

煙か土か食い物 (講談社ノベルス)

最近の個人的読書履歴から考えると、次のステップに進む前提として舞城王太郎を避けて通ることはできない、と思う。
でも、私の心にはまだ同年代の才能ある作家の作品を読むとジェラシーで身悶えする程度には若さ(未熟さ)に溢れた生活反応があるので、ずるずると先延ばしにして今まできてしまった。
(今思えば、乙一を無名の頃から(それも個人的に嫌いな作品から)読んでいたのはとても幸いなことだったのかもしれない)

それなのに何故今更読む気になったかと言えば、JDCトリビュートの「九十九十九」を読みたくなったという実にバカバカしい(?)理由からであり、いろんな意味で清涼院流水によって紡がれた縁であるということになるのだろう。
(周囲の評価がどうあれ、流水大説を読むのは私にとって最高の娯楽なのだ)

とはいえ、何事につけ形から入らないと不安になる受身な性格であるため、いきなり目的のモノにダイレクトに触れるようなことはせず、デビュー作である「煙か土か食い物」から読み始めることにする。

ちょうど京都に向かう用件があり、移動時間の退屈しのぎにもなるだろうと電車の座席で揺られながら本を開いたのだが…5分もしないうちに、強烈な眩暈と頭痛と嘔吐感に襲われることになる。
元々乗り物に極端に弱く、睡眠不足や空腹が祟っていたことも否めない。だが、それ以上にやはり、この作品の文章のリズムが生理的に合わないものであったことが最大の理由であったことは間違いないだろう。
序章も読み終わらないうちに本を閉じ、深呼吸して気分を落ち着かせようと努力しながら、でも、確かにこの作家が世間が騒ぐに足るだけの「大きい」存在であることだけは完全に納得させられていた。

その後、十分な休憩を挟みながら一気に読み終えて、その第一印象が正しかったことを改めて実感する。
確かに、この「『文章』力」は非凡極まりない。

決して、文体が流麗というわけでも分かりやすいというわけでもない。
しかし、徹頭徹尾読み手を圧倒し続ける独善的で強靭なパワーは、エンタテイメントの枠に収まりきらないドぎつい「輝き」(それを「文学的」と表現することを嗜好としては好むが、志向としては俗化させる危うさを孕む行為であるとも思う)を確実に備えている。
「文学」という言葉に拘りを持つ人達が大好きな「匂い」がするのだ。

残念ながら、メフィスト賞受賞作ということである程度の縛りが存在したのか、余分なミステリ要素を加えたことによって所々テンポが悪くなっている部分がありことは否めない。しかし、そうした減点要素によってこの作者の備えているポテンシャルの高さが損なわれることは、1ミリたりとも無いだろう。

もっとも、そうした賛嘆の念と同時に、作中の洗練しきれず荒削りなまま残されているような箇所が目に入るにつれ、かつて平野啓一郎の「日蝕」に接した時と同じ感覚、すなわち「文学」に対して抱いている淡い憧憬が、実は単なる幻想に過ぎないのではないかという不安を抱いてしまうのも、また事実だ。
その真偽を確かめるためにも、この二人の作品はきっちりと長い時間をかけて追ってみたい、とも思う。

それにしても、もし舞城王太郎清涼院流水の出現に幾分かでも呼応して生まれた才覚だとしたら、流水御大の存在にまた輝かしい勲章が一つ備わったことになるのだろうか…