ファルージャ

ファルージャで、米兵が無抵抗の負傷者を射殺したシーンが同行したTV局によって撮影され、問題になっているそうだ。

だが、ここで問題とされるべきは、その兵士の行動(「死んだ振りしてやがるぜ!」といいながら、負傷して動けない相手の頭部をライフルで撃ったんだとか)ではない。
ゲリラ(テロリストとは言わない)との市街戦は、ベトナム(日本人が好きな例を出すなら南京とかでもいいだろう)などでも繰り返し言われたように、民間人と兵士との区別がつかない(というより、本来そこに線引きができるはずもない)わけで、投入された兵士としては「怪しいと感じた相手は殺す」という手段を取らずに身を守ることはできないのだ。

アメリカ政府は「ファルージャからは民間人は既に離脱した」と作戦前に述べた。だが、「民間人」とは何を指しているのか。
武器を持っていたらテロリストなのか?反米の意思を持っていたらテロリスト?
ファルージャには、女性も子供も老人も沢山残っていた。反米の意思、抵抗の意思を持った者も、そうでない者も。
女性だって、子供だって爆弾を抱いているかもしれない。それを見分けることなど、極限の緊張下にある兵士達には(能力的にではなく、リスクの問題において)できようはずも無い。であるならば、確かに一度攻撃を始めてしまえば、そこにもう「民間人」が存在することはできないだろう。
後に残るのは「明確な敵」と「明確でない敵」だけ。

今回の「事件」は、だから、「事件」ではない。
「事件」性は、攻撃を決定したそのこと自体に存在している。あるいは、口封じもできないような「自由な」マスコミを同行させたことに。

一人のゲリラを殺すために、十人の民間人を巻き込む。…その帰結は、百人の新たなゲリラ予備軍を生み出すだけだろう。その百人の行動を押さえ込むために、見せしめ(恐怖戦術)としてまた新たなゲリラを一人殺す…
アメリカの今の行動が我々に教えてくれるのは「テロを許していたのでは、いつまでも平和はこない」という明確な事実だろう。