『有限と微小のパン』

有限と微小のパン (講談社文庫)

数奇にして模型」の感想を書かないといけないな、と思っていたのだが、なんとなく気乗りしないまま時間が過ぎてしまった。
かといって続きを読みたいという気持ちにも全くなれないでいたのだが、そうこうしているうちに、後追いで読んでた母親に追いつかれて次を急かされてしまったので、仕方なく購入するハメに。

実の所、個人的にはS&Mシリーズというか、森博嗣作品自体はあまり好きじゃない。
キライ、つまらない、というのではない。作品としては十分に良作の部類に入っていると思うし、これより面白い作品を挙げろといわれても、そうそう簡単に名前が思い浮かんできたりはしない。
ただ、エンタテイメントという言葉に個人的に求めているモノの軸が、森センセイのそれとは微妙にズレている(世間の大半は森センセイの軸の方に合ってるのだから、これは単なる言いがかりでしかないのだろうけど)のだ。

では、何故このシリーズをここまで延々読み続けてきたのかというと、(それこそまさに「数奇にして模型」の感想で触れようと思っていたことなのだが)私の中において「森博嗣幻想」という代物が大きな存在として打ち立てられていたからに他ならない。

数奇にして模型 (講談社文庫)

「数寄にして模型」の解説を読むまで、森博嗣が学生時代マンガを書いていたことや、名古屋の同人会の大御所であるなどということを、私は全く知らなかった。
私の中での森博嗣のイメージは、まさに作中における犀川のそれにぴったり重なる「ナチュラルボーン学者」とでも言うべき、いわゆるインテリ層ともまた少し違う、良くも悪くも浮世離れした人物、というものだったのだ。
そんな人物が小説を書いてみたら、偶然「世間の求めるエンタティメント」とピッタリ合致して傑作を生み出してしまった…そんな、ファンタジックなサクセス(「森博嗣」にとって、ではなく「エンタテイメント」というジャンルにとっての)ストーリーを妄想的に思い描いていたからこそ、私は「森博嗣」を一種別格として扱い、これまでその作品を追い続けて来た。
(だから、短編集「まどろみ消去」の「やさしい恋人へ僕から」は衝撃的だった。森博嗣にこんな引き出しがあったのか、と。今にして思えば、この作品を代表として、森作品の多くは私小説であることが多いようだし、この作品のもつ雰囲気こそ、まさに森マンガのそれであったのではないかと、森マンガを読んだ事は一度も無いけれど思う)

しかし、実際には違った。

今になって考えてみれば当たり前(=つまらない現実)のことだが、森博嗣は最初からエンタティメントの畑で創作を続けてきた歴戦の兵であり、言うなれば「異端児」ではなく、「申し子」であったわけだ。
それで(私個人の脳内でのものとはいえ)森博嗣の評価を下げるのは、これまた無茶苦茶な言いがかりだとは分かっているのだが、元々作品自体が個人的なツボを外していたこともあって、私の中での森作品株は続落・ストップ安。
結果として冒頭に書いたとおり、本屋に行っても「有限と微小のパン」に手が伸びることが無かった。

まだまだつづく。