読了

昔から「文章を書くときは、分かりやすく・要点を・簡潔に」という教えを忠実に守ってきた。

論理的思考を組み立てる能力には乏しいが故の、いきなり思ったことをざっと書き殴って、何度も何度も読み返しながら切り詰め・書き直しをしていく方法は、彫像を作る作業に似てるような気がする。
贅肉を極限までそぎ落とした文章は、原型とは似ても似つかぬものとなってしまうが、代わりに他人が同じテーマで書いたものとは極めて似てくる。

しかし、実際に「読ませることで楽しませる」文章を作る上では、その贅肉をどうやって残すのか、という点が最も重要なのだろう。
ガリガリに痩せてるよりは付くべきところに肉がついてる方に魅力を感じるのが、一般的な感性ということか−−勿論、趣味嗜好の分野において例外はつきものだが)

京極夏彦の文章はまるで袁紹の母のようにナチュラルで豊満な曲線を描き出していて、そこに埋もれる人間を自然なリアリティで抱擁してくれる。
「省かない、省略しない」というまるでどこかの団体で一時期流行った文句のようなテーマとはまさに対極。ありのままに無駄な文章(「本当の無駄」は当然省かれているけれど)を残すことが、作品の世界観を表現する上での独自の手法なわけだ。
(「姑獲鳥の夏」などはまだその境地に至る前であったが故に、あれだけ痩せているのだろう)

一方で、清涼院流水のように「明確に無駄」なものを大量に押し付け、そこに費やされた労力を最後のオチで一気に崩壊させる一種ドミノ的な自虐風カタルシスを売りにしている作家もいるので、注意が必要ではあるのだが。

百器徒然袋 風 (講談社ノベルス)

「百器徒然袋 風」読了。

主人公に名前がついてしまった(キャラクターとして確立してしまった)ことで前作に比べるとより取っ付きやすい娯楽小説(キャラクター小説)になった(なってしまった)のが、少し残念。
本編との差分化を明瞭にするためなのだろうけど、キャラクターの描写をよりライトに崩してあるのも好みが分かれるところかもしれない。

内容も「面霊気」などは小物の演出が効いていて少し雰囲気が出ているが、全体的に犯人側のトリックが浅く、読者側からでも京極堂並に早い段階で全容が見えてくるため、決着時の爽快感にはやや乏しい。(まぁ、榎木津編である以上複雑なトリックを用意すると解いてもらえなくて困るのだろうが)
とはいえ、長い時間をそれなりに楽しく過ごせるという意味で、良質の娯楽作費であることに間違いはないだろう。