もしもし亀よ

亀田兄弟の長兄を見るたびに、いろいろと複雑な感情を持ってしまう。

身体能力の高さ、他を圧する練習量(これは経済的な裏打ちがなかった時代から続いているところがすごい)、指導者に対する絶対の忠誠心、ファミリーに対する愛とそれに起因するハングリー精神、絶対に自分のパターンを崩さずに試合を運ぶ優等生的な性格。
これらどれを取ってみても、彼は優秀なボクサーに「なれる可能性を秘めている」素晴らしい素材だと思う。

しかしながら、今現在の彼の実際の姿はどうだろうか。

ランダエタ戦。
間違いなく世界レベルの実力者とは言え、相手は亀田本来のフライ級から見れば2階級も下のロートル選手。
その相手に、ダウンを奪われ、中盤をかわされ、終盤叩き潰されたあの試合。
彼を「世界チャンピオンに相応しい」と感じた人は、決して多くなかっただろう。

率直な感想を言うなら、今回の試合、私はかなり感動した。

緊張で19歳の素の表情が見え隠れした入場シーンから、いきなりダウンを奪われて呆然自失となった後も、彼は決して「オヤジのボクシング」を崩さなかった。
高くガードを上げ、相手の隙を狙ってボディブローを叩き込む彼のスタイルは、しかし老練なランダエタには完全に見透かされていたのか、有効打を与えることはできず、逆に上げたガードの隙間からいいパンチを貰い、体力を削られていく。

素人ボクシングの限界。

ガードを固めても総合的なディフェンス技術の不足からそれが有効に機能しない。
攻め手を塞がれてしまっても、指導者は「前に出ろ」「根性だ」としか言えない。
それが、彼らの信じた「オヤジのボクシング」の実像。

そして、11R。
打ち込まれた亀田は、とうとう立っていることができなくなる。
必死の形相で相手にクリンチしてダウンを逃れようとする亀田。

それは、まさに「闘拳」として作り上げてきた虚像の崩壊だった。
ボクシングを知らない「亀田ファン」達にとっては、まさに失望モノの無様な姿。
しかし、同時にそれは、「勝利のためには泥をもすする」真のボクサーの誕生の瞬間でもあった、と思う。

1Rのダウン後、太鼓持ち解説陣の一人竹原が、「みっともなくてもいい。ここはクリンチして体力の回復を図ったほうがいい」と繰り返し発言していた。

そう。かっこよくなくてもいいのだ。 どれだけみっともない姿を晒して、どれだけ血まみれになって顔をボコボコに腫らして、地面にはいつくばってもいい。
それでも「勝利」のために前身する姿こそが、ボクシングの美しさであり、観客を真に魅了する姿なのだ。

対戦相手を戦前から威嚇して自分の強さをアピールすることでもなく、ヤクザまがいの言動をして肩で風切って歩くことでもなく、ただひたすらに勝利を求めて苦しみに耐える姿こそ、「ボクシングのチャンピオン」の、真のかっこよさなんじゃないかと私は思う。
たとえここで負けたとしても、そこから再びあの血のにじむような努力を重ねて這い上がれば、その姿を人々は支持してくれる。
亀田にとってこの試合は、まさにそうしたボクシングの本道へと立ち返るための、最高の機会になりえた、と。

しかし、「亀田」像に集まる巨額な金が、結局それを許す事はなかった……

ボクシングの採点ルールとホームタウンディシジョンを総合的に考え合わせれば、今回の判定結果が「ありえる」ものだということはある程度理解できる。
しかし、ボクシングのルールを知らない層にその支持基盤を求めてきた亀田陣営の戦略が、皮肉にも「これは審判が買収されてるんじゃないのか?」という見方に説得力を与える結果となってしまった。
人気を集め、視聴率を稼いでみせたからこそ、逆に彼らの戦略は大きなつまづきを見ることとなった。

試合終了後、いくつかのTV番組に出てきた亀田は相変わらずのスタイルで、相変わらずの言動を繰り返していた。
このイメージ戦略もまた、「オヤジのボクシング」の一環である以上、彼は今後もこの呪縛に捕らわれ続けるのだろう。

しかし、そんな姿を見てみていて時々思う。
時折見せるどこか不安げな途方に暮れた子供のような表情や、試合後リングで叫んだ「お母さん僕を産んでくれてありがとう」のセリフ。
こうした折々に垣間見せる、「闘拳・亀田」ではない素の「亀田興毅」の姿で、いつか彼が本当のボクサーになれる日が来るのだろうか、と。

子はいつか親離れして一人前にならねばならない。
本当のボクシング、本当のかっこよさを求める。
そんな旅立ちが、いつか彼らにも訪れるのだろうか。