若貴

相撲が好きだった。

そもそもの始まりは祖母との茶飲み話の種に、ということで見ていただけだったのが、いわゆる若貴ブームの始まった頃から真剣に面白いと思うようになり、気がつけば毎場所欠かさず見るようになっていた。(勿論全取り組みとはいかないが)

思い返せば私の世代の相撲原体験は千代の富士の圧倒的な強さにあるのではないかと思う。
小兵ながら妥協のない殺気さえ感じる取り口。叩きつけるような激しい投げ。
周囲の力士(特に横綱陣)の不甲斐なさというのも多少はあったろうが、とにかく千代の富士は絶対的な強さを持った存在だと子供心に感じたものだった。
しかし、その一方で、それ以外の力士については、多少名前を覚えてはいるものの、ほとんど印象に残っていない。トータルで見れば、相撲というのはなにやらのっぺりとした世界でしかなかったのだ。

それから5、6年くらいのブランクを経て見ると、力士の世界も随分と様変わりしたように思えた。
土俵の上は昔ながらのユーモラスな体型をした「お相撲さん」の世界から一変、鍛え上げられたアスリートの肉体美を見出す事ができるようになり、曙・武蔵丸などの大型力士から舞の海のような小兵までもが活躍する多彩な競技形態は、見る人を飽きさせることなく絶えず惹き付けるだけの力を持っていた。

そんな中でも曙、貴ノ浪魁皇といった「型にはまると無類の強さを誇る少し癖のある力士」が好きだった私だが、そうした個人の趣味を超越して、当時多大なリスペクトを持って見ていた力士がいる。

それが、貴乃花だ。

エリートとしての鮮烈なデビュー、千代の富士との因縁の一番といったドラマ性。
スキャンダルに躓き、若さ故の青さを度重なる人格批判によって否定され、心の苦しみの中から次第に「デミウルゴスな理想」を追う求道者として盲目的な信仰を深めていったその人柄。
「神の体に童の顔」と呼ばれたらしい素晴らしい肉体美。「横綱相撲」という「道」に拘り、一切の面白みを廃していったストイックな取り口。

それら全ての要素が、貴乃花という力士を私の中で「別格」の存在として輝かせていた。

子供の頃に見た千代の富士は強かった。
だが、その強さはあくまでも、怒りにも似た荒々しさを伴った物であり、或いは「優しさ」「厳しさ」「ひたむきさ」などと表現される過去の名横綱達が持っていた特性同様に、力士の源流である八百万の神の世界にも通じる、「人間臭さ」を感じさせるものであった。

しかし、貴乃花にはそれがなかった。

「理想の相撲」「理想の横綱」。
「それって何?」と訊かれても誰一人として答える事ができなかったであろうこれらの言葉によって表された「究極」を頑なに信じ、それをその身に体現させることを目指した彼の姿は、明らかにあの世界にあって異質な存在であった。

その「理想」は、所詮人工的な「有り得ない偶像」でしかないと私は思った。
しかし、貴乃花という強大な力を持った力士が、それでもなおそこに向かって進まねばならぬと自らを律し続けているその姿を見ていると、次第にこちらまでその「理想」をひょっとしたら実存のものとしてこちらの世界に引きずり出すことができるかもしれない、という錯覚を覚えずには居られなかった。
そしてそれは、当時の相撲ファンの多くが盲目的に持っていた一種の信仰であったと思う。

結局貴乃花は道半ばにして、負傷による引退を余儀なくされた。
だが、アスリートとしての自制心を、「横綱としての責務」という周囲の軽はずみな言葉に押し出されるようにして捨てざるを得なかったその最後の姿はまた、殉教者としての「破滅の美しさ」に溢れていた。

現役を離れた瞬間、私の仰ぎ見た「愚かな信仰者」としての貴乃花は死んでしまった。そのはず、だった。
それは美しい死であったはずなのに、現実には今、貴乃花は生きて第二の人生を再び「理想」を追う道として歩んでいる。
その生死の矛盾こそが、今の騒動の根幹にあるのではないか、と私は思う。

偉大なる貴乃花は死んだ。
彼の信じた「人工の理想」は、それに殉じた彼自身の死によって、初めて真に価値あるものとして人々に実存を感じさせることができた。
しかし、今彼は生き返って再び「その理想を体現し得た」者であると称し、活動している。
今の彼が活動すればするほど、彼自身が信じた「人工の理想」は、再び混沌の海の中へと沈んでいってしまうような気がしてならない。

…しかし、それでもなお、私は感謝と共に貴乃花の肩を持ってやりたくなるのだ。
例え彼がマスコミに(利用してると思いながら実はただ利用されているだけの哀れな道化として)囃し立てられながら、ピーターパンを追って踏み板を歩むフック船長なのだとしても。

ああ、『どすこい』でももう一回読もうかしら。