『始皇帝暗殺』

ふとケーブルTVの映画チャンネルに合わせたら、なにやら面白そうな番組を発見。何気なく見てたらつい引き込まれて最後まで見てしまった。

以下、ネタバレ+感想。

◆◇◆◇ストーリー◆◇◆◇

舞台は中国春秋時代末期。秦王・政とその幼馴染にして恋人・趙姫との物語。

「六国がある限り戦いは止まず民は苦しむ。六国は滅びねばならん。私がやらずとも、誰かがやる。それはお前かもしれん」(かつて兄弟同然に育ち、現在は秦の人質になっている燕の王子・丹に「六国攻めを中止せよ」と剣を突きつけられてのセリフ)

物静かな微笑の奥に固い信念を秘めて天下統一を誓う秦王・政。
その政に惹かれ、彼を理想を支え、時に叱咤激励しながら寄り添う趙姫。
次第にその勢いを増す秦の覇業。
そんな中、燕国攻めの口実を探す政に趙姫は人質である燕丹(彼はかつて親しくした政が現在は自分を人質として冷遇していることを恨んでいる)を送り返すことで、燕が政に対して暗殺者を差し向けるよう働きかけるという計略を提案する。(刺客が送られて来たことを口実にしようという作戦)

確実に刺客が送られてくるように丹を監視する信頼できる者が必要だ、そんな人物が身近に思いつかない、と渋る政に、趙姫は自ら牢獄に赴いて己の頬に罪人の焼印を押させ、自分が監視者としてついて行く事を宣言する。
「お前が焼印を受ければ天下の民が救われるとでも思っているのか!」と、彼女の美貌が損なわれた(これがまた役者がメチャメチャ美人なのだ。まさに傾城といった雰囲気が出てる)こと、彼女が自分に相談もなく行動に出たことを嘆く政に、趙姫は「この頬はあなたの『天下の民を救う』という理想を永遠に刻み込んだものだ。あなたにはこの印を見るたびにその理想を思い出して欲しい」と囁く。

燕に渡った趙姫は、そこで一人のみすぼらしい風体の男と出会う。
思いもよらぬ事故で人を殺めて死罪になるところを趙姫に救われたこの男こそ、天下一の刺客(暗殺課業の剣士)として名高い荊軻であった。
しかし、その名声とは裏腹に、趙姫の目の前にいる男はただの心を病んだ廃人としか見えない。

かつてその数知れぬ人斬り稼業の中、荊軻は一人の少女と出会った。盲目の彼女は家族を荊軻に殺され、「自分ひとりでは生きていけぬ、誇りを捨てて物乞いはできぬから私も殺してくれ」と申し出る。荊軻がその命を取るのは忍びないと見逃そうとすると、少女は自から命を絶ってしまった。恐らく、犬として誇りを捨て、したくもない人殺しをしている自分の姿を彼女と比較して恥じたのであろう。「俺はもう決して人を殺さない」と、荊軻はうわ言の様に繰り返し呟く。

その心に秘めた意思の強さと人柄に惹かれた趙姫の粘り強い看護で、荊軻は次第に本来の気高さを取り戻してゆく。
荊軻の事を良く知る丹は当然その関係を利用して趙姫が荊軻を政暗殺の刺客として仕立てあげるものだと思い込むが、荊軻の信条を気高いものと感じた趙姫は、それが出来ないまま荊軻との心の触れ合いの時間を長く過ごしてしまう。

一方、唯一心を許す存在であった趙姫を喪った政は、その後母親の裏切りや、己の出生にまつわる禁断の秘密を知ってしまったことで次第に心病み、覇業の勢いを暴走気味に加速させていく。

やがてその心の傷は趙国攻めの際に趙人に対する苛烈すぎる処罰へと繋がる。
人質として過ごした幼少期に己を蔑み、貧苦の中手を差し伸べもせず、あまつさえ最後には命を奪おうとした趙人への、それは政の復讐であった。
政の理想によって平和がもたらされるであろうと信じた己の祖国に対するその残忍な仕打ちを自らの目で見た趙姫は、政が変わってしまったことを詰り、頬の焼印に誓った理想を再び思い出せ、と諭す。
その言葉に一度は立ち直りかけた政であったが、国を焼かれた趙人からの激しい憎悪をその身で感じるや、自分同様彼らがいずれ復讐に立ち上がるだろうという妄執に取り付かれ、趙姫から救ってくれと頼まれた趙の子供達を一人残らず坑してしまう。
邯鄲城外に、見渡す限り埋められた子供達の哀れな骸を抱きしめ、趙姫は政を殺すことを誓う。

地獄と化した邯鄲から帰った趙姫の心の傷を察した荊軻は、彼女のために禁を破り、政を暗殺することを決意する。
だが、そもそも政暗殺は趙姫自身がお膳立てした道化芝居である。万に一つも成功する可能性はないし、仮に成功しても荊軻が生きて帰る事はできない。
復讐心と荊軻への想いの板ばさみとなる趙姫。
だが、そんな趙姫の言葉を聞いてなお、荊軻はただ静かに己の決意を固くするのみであった。

長らく避けていた丹の下へ自ら登り、刺客の役を願い出る荊軻
しかし、長いブランクによる腕の衰えを疑う周囲の者達は、同様に政暗殺のために集められていた刺客達(燕の食客と思われる)との果し合いに勝つことをその条件として提示してくる。

当初はその圧倒的な技量の差で他の刺客達を子供同然にあしらって居た荊軻だが、勢いに負けてつい切ってしまった男から「手加減はしないでくれ。秦王を暗殺する事を宿命と思っていたが、お前に敗れてはそれも適わない。ならば、せめて秦王を暗殺したお前の手にかかって倒れた、と言われるのが俺の人生の意義だから」と懇願されてからは修羅のごとく豹変し、返り血にまみれて行く。

その姿に満足した丹から刺客の任を託された荊軻
史実に記されたとおり、道化を演じながら政の元へ近づいた荊軻は、献上品に隠した懐剣で政に切りつけるが、僅かに狙いを外してしまう。
帯剣を禁じられ右往左往するだけの列臣の間を逃げ惑う政。追う荊軻
投じた懐剣の狙いが外れたのを見た荊軻は一度取り上げられた後特別に許されていた帯剣へ手を伸ばす。しかし、その剣は政の策によって半ば以上を折り取られていた。
呆然とした荊軻を、政はようやく抜き放った剣で刺し殺す。

死の間際、荊軻は政を哀れむように笑う。
その笑いの真意が理解できない政は荊軻を問い質すが、荊軻はもはや何も答えなかった。

呆然とする政の元に、趙姫が静かに現れる。
自分の元へ戻ってきてくれたのか?と問う政に、趙姫は拒絶の意思を表す。「私のお腹には荊軻の子供が居ます。私は荊軻を連れて燕へ帰ります。阻みたければ私も殺しなさい」、と。
政は黙って趙姫を送り出した。

◆◇◆◇劇終◆◇◆◇

見ていてとにかく惹き付けられたのは、趙姫の美貌…ではなく、映像の美しさ。
咸陽の王城の映像や邯鄲での戦いの映像などは、どうやって撮ったんだろう?と思わせる圧倒的な迫力。後で調べたら、CGではなく全部セットを作ったんだとか。咸陽の城はそれだけで建造費20億円。壮大極まりない話である。
「ヴァーチャルより本物の方が安いんだ」っていう有限と微小理論は、今のご時世だと微妙に真偽が拮抗しているのかも。

学術的な考察は甘いんだろうな、と思わせる面も随所にあったが、それらは全て映像としての映えや雰囲気を出すための「良い」嘘だったと個人的には思う。
特に、戦争のシーンや咸陽での内乱のシーンは圧巻の一言だった。近衛兵団かっこえー。
この勢いで「蒼天航路」とか映画化してくれないかなぁ、と思ってしまった。

その一方でストーリーの方はなんとなく釈然としないというか、良くわからない後味が残った。

なんだか趙姫が物すごい身勝手な人に思えてしまう、というのがその主たる理由なんだが…
自分で一緒になって焚き付けた野心のアフターケアもせずに自分は田舎でちょっと毛色の違う男相手によろしくやってしまった挙句、最初の相手が自分を裏切ったと非難するのはまぁ同情の余地が多少あるにせよ、その復讐に新しい方の男を利用する…まさに、悪女。(烈女?)

そもそも、覇業の影には人死にはつきものだし、あの時代の戦では不条理なまでの残忍さ(現代人から見て)が発揮されるのは日常的な話(まぁ始皇帝のは同時代人から見てもちょっとだけ苛烈ではあったようだが)。それを知りもしないで無邪気に秦王の理想に喜んでいたのは趙姫の子供っぽさであり、邯鄲での破局は裏切られたというより、単に「趙姫もようやく大人になりました」としか思えないのは、見ている人の性根が歪んでいるからだろうか。

ただ、それはあくまでもライトなエンターテイメントとしての筋書きを大前提として要求してしまうからの疑問であって、本来この作品はそうした趙姫の矛盾や始皇帝の心の分裂を描き、荊軻の最後の笑いという謎掛け(まぁ見てる側にとってはこれはあまり謎じゃないんだが…)を以ってそれらの集約として提示しているんだと考えれば、それはそれで面白いな、とは思う。

謎といえば、劇中では触れられていなかったけど、荊軻が暗殺に用いた懐剣はひょっとして政が趙姫に託した剣だったのだろうか。
割とありそうな演出だけど、それじゃ筋が通らない気もするので、難しい所だ。

こういう映画はあまり理詰めで考えて見るより感性に任せた方がいいのかもしれない。
ブルースリー先生も仰っておられたことだし。

ただ、見る時に最低限当時の中国を描いた時代物はちょっと読んどいた方がいいだろうなぁ、とは思ったけど。
精神構造や社会システムが日本のそれとは(現代人のみならず時代小説に出てくるような人物・舞台とも)かなり異なってることを踏まえないと、どの人物がどういう意図で描かれているのか誤解してしまいそうだ。
かくいう私もちゃんと理解できてる自身はない。

でも、なんだか高校時代の古文の授業(うちの国語教師は何故かやたらと法家贔屓で、テキストは韓非子一点張りだった…)とか司馬遼太郎の「項羽と劉邦」とかを思い出して懐かしくなるひと時ではあったなぁ。

どうでもいいことだが、太鼓を叩く丹の姿は袁紹そのものだった(笑)